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  • 執筆者の写真nobuhiro nagai

竹林さんとの思い出

とりあえず低ヘッドスピードゴルフの話しが長らく続きましたが、そうこうしているうちに年の瀬を迎えております。

やはりこの時期は忘年ゴルフからの忘年会という流れが多いですが、今年は左肩を痛めているせいもあってか、ゴルフも無くてわりと静かな年末です。 暦の方も今年は休暇が長く、また昨年までは12月23日が天皇誕生日で祝日だったイメージが残っているのか、クリスマス辺りからもう仕事モード解除みたいな雰囲気があったのでは?と思います。 そう言いながらも、私は今日が仕事納めのラウンドレッスンで、そのまま夜は忘年会。昨日は北風が強くて身体の芯まで冷える一日でしたが、今日は風が無いみたいなので、少しはましか?と期待しております。 さて、年末となると思い起こすのが、ゴルフクラブデザイナーとして世界に影響を与えた竹林隆光さんの命日。2013年の12月27日に永眠されました。 その日私は、嵐山カントリー倶楽部でグリーンパークゴルフセンターのプロ仲間との忘年ゴルフがありました。それを終えて帰宅した時に、当時はまだフォーティーンに在籍していた、現ジューシー株式会社代表の松吉宗之さんから、私の下に竹林さんの訃報が届きました。 家の中には私だけでしたが、いつものダイニングテーブルに座って嗚咽したのを覚えています。 そして、私の部屋のクラブ置き場から、竹林さんとの思い出に溢れた名器スーパーゲロンディを持ち出して写真を撮り、レクイエムの記事をFacebookに投稿しました。 11月にブログを開設以来、日々のテキスト作成の中で、またあらためて竹林さんから学んだ事を振り返る機会が多いと感じています。


そんな事もあるので、1日遅れてしまいましたが、竹林さんとの思い出について記事にしたいと思います。 私が始めて竹林さんと会ったのは、グリーンパークゴルフセンター勤務時代です。22歳頃の春だったでしょうか? グリーンパークGCには高校2年生の時からお世話になっており、その後、赤い鳥にチャレンジしての大学生活時はゴルフから離れていましたが、赤い鳥から離脱して大学も1年で辞めて、19歳の4月からまたお世話になりました。 その頃、練習場のお客様で、洗練されたカッコいい常連さんが居て、いつもちょっと変わったゴルフクラブやキャディバッグを使われていて、気になる存在でした。 ある日、その方のバッグを見ると、当時ステンレスメタルの隆盛期でテーラーメイド全盛の中、テーラーより曲がらない(今でいうと慣性モーメントが大きかったのか?)という口コミで人気のあったランガートというドライバーが入っていました。 そのランガート、高校同期の二階堂勝也プロが、当時研修生として勤務していた静岡県の三島ゴルフ倶楽部の先輩である角田周治プロが取り扱っていたらしく、「曲がらないよ!」と薦められてプレシジョンの7.0を入れて貰って一本作りましたが確かに結果は良かったです。 ちょうどそんな頃だったので、「ランガート、お使いなんですね!」と声をかけさせて頂くと、「おっ、ランガート、知ってるの?」と会話が始まり、親しくさせて頂く様になりました。 その方は、ゴルフダイジェスト社「Choice」の編集者で、ゴルフも片手シングル。後に一緒にパブリック選手権とか行くようになりましたが、私は関東で撃沈してもその方は全国まで駒を進めておられます。


その当時はChoiceの全盛期。時代もいわゆるバブル期で、海外からの新鮮な情報が毎号ふんだんに盛り込まれていました。


まだ海外がそれ程身近にイメージ出来ない時代です。PGAツアーやギアにゴルフコースなどを伝える誌面を喰い入る様に見た覚えがあります。


テーラーメイドもありましたが、まだテキサスウッドやクリーブランドのパーシモンがカッコ良かった頃です。ピンアイⅡにトミーアーマーのキャビティアイアンで、アシュワーを着てナイキのエアマックスでプレーしていたのが懐かしいです。 その憧れのChoiceを作っていた方と知り合う事が出来たと言う、私のゴルフ人生に欠かす事のできない出会いがそこにありました。


ある日、その方より「今度、竹林さんとゴルフするから一緒に行かない?」とお誘い頂きました。二つ返事で「ぜひ!」となり、たしか3月の風の強い日に埼玉県の高根カントリー倶楽部で竹林さんとご一緒させて頂く機会を得ました。 その日のもう一人の同伴プレーヤーは、高根CC所属の久保勝美プロ。久保プロともこれを機に今でも交流させて頂いておりますが、ちょうどその時の久保プロは首の故障でほぼまともにスイング出来ない状態の中、お付き合いで18ホールご一緒して頂きました。 朝、スタートホールに4人が集まり、ホスト役の方以外は皆初対面なので、久保プロ、竹林さん、私の紹介がありました。 そしたら竹林さんを見た久保プロが、 「ダメだよ!こんな上手そうな人連れて来ちゃあ。もう、上手いっていうオーラが出ちゃっているじゃない。どんだけ上手いのよ、この人!」 と言い出しました。 ホスト役の方は 「たいしたことないよ!日本オープンでベストアマ獲るくらい。」 と言いました。 「ほら、やっぱり!片手シングルとかのレベルじゃないよ、この雰囲気は…。」 とやり取りし、笑いながらスタートしていきました。 この日は春先の強風で、かなり難しいコンデション。高根CCもクラシックなコースなので、決してホールは広くなく、かなり難しかった印象があります。 しかしながら、数ホールを終えて、竹林さんのプレーぶりを見ていて気が付いた事がありました。 強風の中、竹林さんは2打目以降、常に風上に立ってグリーンを狙うショットをしていて、ピンに対しても風上のエリアにボールをキープしていました。 私は風に流されてしまい、風下からプレーして悪戦苦闘していましたが、なるほどボールコントロールとは、こういう事なのか!と学ばせて頂きました。 その後、仕事でお付き合いさせて頂く様になってから、フォーティーンのクラブ販売に貢献したとの事でグアムやサイパンでのゴルフ旅行にもご一緒させて頂きましたが、とにかく風の中でボールコントロールする技術は見事! 高低に左右のカーブの打ち分けなど、テクニックを駆使してピンを狙ってくるアイアンショットは、今思っても素晴らしい技です。 やはりこれは、インパクト力学とクラブの重心特性を理解しているからなんだと思います。 一度、ご本人に伺った事があります。 「竹林さんは、競技者としてのピークを、社会人になってから迎えられてますよね?これは、普通に考えたら、仕事で練習時間が取れない事やラウンド数が減ったりと、競技者としては不利ですよね?なんでなんですか?」 竹林さんは、こう答えられました。 「社会人になって就職したヨコオゴルフに、インパクトアナライザーがあって、それで練習していたら、こういうイメージでこうやって打つと、ここに当たって、こういうボールが出るというパターンが完全に構築できたんです。当時はパーシモンヘッドだから、どこに当てるかかが全て。これを掴んでからはミスが減ったので、ゴルフが強くなりました。」 また、 「会社の人たちと、いつもコーヒー代をかけて、インパクトアナライザーでインパクト効率値の勝負をやっていたんです。ドラコンだと、いつも同じ人が勝っちゃうから。」 ともおっしゃっていました。 この頃の竹林さんは、まだギリギリ競技者だっだのかもしれません。 竹林さんとの思い出は、まだ序の口程度ですが、もうけっこうゴルフの本質として大切な事で溢れていると思います。

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